第二百九十二夜 人力検索の正義の話をしよう

(追記:スターが付き始めたのでプレッシャーかかるな(笑)。この手の話題はタイミングを誤ると自治厨扱いされるので、本書が話題になったのを受けて、今のタイミングでエントリーしておくことにしました。追記、書き直しが多くなるエントリーだと思いますので、完了まで少し時間がかかると思います。ご容赦下さい。)

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

画像はマイケル・サンデル氏の「Justice」です。細かい説明は不要でしょう。
ハーバード大学で最も人気のある(文字通り毎回講堂が満席になるほどの)、名物講義である「Justice」。本書は、同大学が人気の高い本講座の公開放送を行ったことから一般にも話題となり、書籍化に当たって不足部分が補完された内容になっています。
 
哲学の書籍でありながら、現代人が直面しうる様々な課題・難局を織り交ぜ「正義に関する自分自身の見解を批判的に検討する」ための強力なツールとなりうる作品である。本書の批評や解説はネットに溢れているのでわざわざalpinixが拙い解説文を載せるまでもない。
一言だけ、この後で論じることになる話題のために内容を紹介しておくと、マイケル・サンデル氏は本書の中で市場原理を追求する功利主義リバタリアンを完全には否定しないものの、それだけで判断できない局面があることを例示することで、「金では買えない倫理や何か高貴なものが世の中には存在し、現代の正義はそれをもっているべきである」、と主張しているようだ。
 
さて、本書の内容に触れるのはこの辺で切り上げて、本題であるタイトルの件-人力検索の正義の話-に進もう。
 
一般的な正義とは何か? を考えたり、この本に関する書評を探すなら他にいいサイトは多く出てくると思うが、はてなユーザー人力検索に関して「何が正義と考えられるのか?」を問うエントリーは恐らくこの先待っていても出てこないだろう(ユーザー減もその一因ではある)。

もしかしたらalpinixが取り上げなければ問われることはないかもしれない、ということで、これまでalpinixが経験した内容を検証しながら、「何をもって人力検索の正義」とされるのかを検証したいと思う。
記述の過程でこれまでに出てきた特定のユーザーの隠語や、立ち居振る舞い、行動などを指摘していかざるを得ない。勘違いしてほしくないのだが、今回の狙いは「人力検索という閉じられた世界の中で何を正義としていくべきなのか」を探ることだ。個別の例示はその検証ために紹介するが、その意図のため今回IDコールは一切行わない。また現役ユーザーの中に該当する方がいるかもしれないが、alpinixは個人攻撃をするつもりは無いので特定した書き方は行わない。
 
本書を読みながら人力検索の現状を振り返ると、この先人力検索を利用していく上で避けて通れないのが不良回答や一部のユーザーに不快感をもたらす類の質問を行う人力ユーザーの問題だ。
規約の件は別におくとしても、ユーザーが何をもってそれら行為を悪とみなすのか、正義に組する行為とみなすのか、これからの人力検索を考える上では重要なことだと思う。数の論理や市場原理では解決できないものがあるかもしれないからだ。
 
まず分けて考えるべきと思われるのは、「質問者」と「回答者」の区分けだ。人力検索は恐らく国内ではほぼ唯一といっていい、「検索の労力や回答者の知識の提示行為にポイントという対価を介在させたQAサイト」である。

質問者は不明な情報を求めるためにポイントを支払う。
回答者は自らの知識・検索能力・作業時間を提供することでポイントという対価を貰う。
 
一見この図式は功利主義そのものに見えなくも無い。だがそうではない(とalpinixは考えている)。
もちろん、参加者にはそれぞれ欲がある。(悪い意味ではない)

  • ある質問者は仕事で使う調べ物を手間をかけずに調べたいと思い、
  • ある回答者は自分の検索能力を誇示することに喜びを感じ、
  • 別の質問者は自分の論理力を設問作成で誇示しようとするし、
  • さらに別の回答者はポイントを貯めることを目的としてできるだけ多くの質問に回答を投下するだろう
  • あるうごめも出身ユーザーはカラースターを購入する手段として回答を行う場合もあるだろう

 
間違ってはいけないのは、「ユーザーが何かしらの損得を目当てに人力検索を利用している」ことを否定してはいけない、という点だ。
ポイントが目当てなのか、名誉が目当てなのか、ただの暇つぶしなのか、動機は人それぞれだと思うが人力検索に参加する目的に損得感情が見えることをもって、悪だと決めることはできない。それは人力検索のシステムそのものを否定することになってしまうからだ。

 ポイント欲しさに大量の回答をするユーザーがいるからと言って、そのユーザーを責めることはできないし、
 自分には関係の無い質問を何度も投下するユーザーがいても、その行為そのものを非難することは筋違いだろう。
 
ここで考慮すべき点は、人力検索が円とほぼ等価のはてなポイントを対価として質問者から回答者に渡される仕組みだ。ポイントを対価としているシステムなのだからポイント目当ての行為を否定しては成り立たない。知識や検索能力を問うサービスなのだから、その能力を否定する行為もまた本末転倒だろう。だからといってポイントを介した功利主義のみが人力検索を動かしているわけではない。
ポイントの行き来は質問者優位の状況を担保し、Q&Aサイトの主導権を質問者側から離させないことに貢献してはいるが、ポイントの多寡でいい回答が集まると決まっているわけではなく、いい回答だったからといって高ポイントが貰えるとは限らない。
 
人力検索がポイントを介した市場原理だけで回っているわけではないことの説明として、功利主義だけであれば発生しない不満「ポイントゲッター」という蔑称が存在したり、自分のポイントを使って質問している質問者であっても、その質問が不快と感じられる場合は非難混じりの回答やコメントが行われたりすることがあります。
例えば、主義主張を繰り返す質問や他ユーザーを貶める質問には非難が集まったり、逆に回答を敬遠される傾向がある、といったことだ。 
 
定期的に発生する不良回答者による低質な回答の連投や、多重アカウント問題、同一質問者による連続質問投下など、を振りかえって真面目に検討してみると、人力検索における正義っていったになんなんだ? という思いを感じずにはいられない。幸いなのか残念なのか、運営サイドからこの手の告知がなされることはめったになく(中には人知れず処分されたユーザーもいる)、恐らくこの先も規約改訂以外の告知は行われないだろう。

そこでユーザーの反応や自分自身が考えてきた内容をまとめ、検討してみることでこの難問に立ち向かってみようと思う。
 
前置きが長くなったが、本論は多分もっと長くなると予想している。この文書は数日かけて練り直すことになると思うので、本文が書き掛け状態のエントリーにぶつかった方は日を空けて見に来てもらえれば幸いだ。
 
 
 
◆質問者の正義◆


質問者と回答者に分けて考えてみたのだが、ここで面白い背反律があることに気がついた。

まずは質問者の行動から見ていくことにする。

  

人力検索の質問者は「身銭を切って質問をしている」面があるので(企業ユーザーはちと異なるが)、非難をうける局面が少ない、と思われます。「身銭を切っている」のだから、質問者の行動には自由至上主義が成り立つのではないか、と判断されている局面が多いようにも見受けられます。多少の愚問であれば、「お金を払っている質問者の自由」なのではないか? というもの。この点は後ほど検証します。

 
キャンセルの正義
一方、「身銭を切る」が仕様となっていることから、キャンセルに対する非難は常に付きまといます。ポイントの多寡に関係なく、キャンセル行為は回答者の作業に対する駄目出るし行為だからです。ポイントを払うのが"通常"の流れであり、キャンセルは"異常"な状態と見られることが多いのです。そのためキャンセルには一定の大義名分を求められる傾向が強いです。(そもそもポイント流通の無いQAサイトであればキャンセルという概念自体も存在しないのだ)

回答者の労力・知見に対する対価としてポイントが存在するので、功利主義の面からみてもキャンセルは非難されることと思います。


(回答が付かなくてキャンセルとなった場合は、検討の余地はないのでそのパターンは省きます)

ご自分が「回答者だっとしたら」「質問者だったとしたら」と当てはめて考えていただければと思います。
パターンA:有効な回答が集まらなかったと質問者が判断してのキャンセルの場合

客観的に判断が可能な「他人の回答のコピペ」「無意味なURLの連続投稿」「無意味な商品紹介のはまぞうリンク」等しか回答に無かった場合は判断は容易ですが、それ以外の場合は議論が発生します。究極と問いとして有効かどうかは結局のところ質問者にしか判別ができないからです。

・設問の設定に穴があったのではないか?

・完全解決はしていないが、質問者の意図は汲まれた回答で、有効ではなかったのか?

場合によっては、質問者-回答者間の論争に発展する場合もあります。

例えば、設問に「来週○日、札幌出張です。お勧めのホテルを紹介して下さい」とあったとして、幾つかの回答で魅力的と思われる回答がついたとしよう。「雪祭りのため紹介いただいたホテルは全て○日の予約は不可と言われました。キャンセルします」となったらどうだろう?

 

回答者は質問者がどこでどうやって購入するのかまで判断できない。だが結果的に質問者の益にもなっていない。(泊まる部屋は見つかっていないのだ)

この場合はキャンセルした質問者と、部屋予約まで確認しなかった回答者とどちらが責められるべきなのだろうか? 質問者にとって有益かどうかは回答者からは判断ができない。設問の条件をクリアしているかどうかが判断の基準となることが多いので、この場合は「設問の設定が甘かった」と判断する場合が多いのではなかろうか。
そもそも「ホテルが予約できるかどうか」は人力検索の機能ではない。

もし設問に「※確実に当日宿泊可能なホテルのみ紹介下さい」等の但し書きが最初からあったとすれば、そもそも回答者は検索をやめるか、予約確認まで行ってから回答しただろう。人力検索に求められているのは情報=知の提供であって、ホテルの予約をするサービスではないからだ。

パターンB:有効な回答が集まったにも関わらず質問者がキャンセルした場合。

過去にキャンセル問題としてなんども提起されているが、こちらは正義の判断自体は容易だ。

だが、何故有効な回答が集まったにも関わらずキャンセルをしたら駄目なのだろうか?


サンデル流にまずは功利主義で考えると、「有効な回答があつまったにも関わらずキャンセルを許していたら、次からは優良回答者が集まらなくなる」からだ、と言えるだろう。確かにそれは正しく思える。では回答者は何故キャンセルを好まないのかというと、ポイントがもらえない、取得率が下がる、といったことだろう。
人力検索の今後に良くない影響が起こると誰でもが容易に想像できるからだ。

では同時に発生するコメント欄の問題とも併せて考えるとどうだろう?

 

回答欄には設問内容に沿った回答Aが集まった。

しかしコメント欄にはより優秀で誰が見ても適切と解釈しうる回答Bが投稿された。

結果として質問者は質問をキャンセルし、コメント欄に投稿したユーザーにポイント送信を行った。
(その行為がコメント欄への書込みなどによってユーザー全員に周知されたとしよう)

質問者の意図した回答は得られている。求められた回答をコメント欄に記載したユーザーには対価としてポイントを受け取っている。

功利主義的に考えると「今後コメント欄に回答を入れるユーザーが増える、回答欄に真面目に回答するユーザーが減るから問題だ」となるのだろうか。
そもそも優秀な回答Bが解答欄に入っていたとして、質問者が配点を回答Aに0point 、回答Bに100pointとつける行為と何が違うというのだろうか?

貴方が回答Aを投稿したと想像して両方のパターンを考えて欲しい。
 
私の答えは「それでもキャンセルは間違っている」だ。無効な回答しかなかった場合は別問題だ。(後述する犯罪関連の質問と同じく、論外、といっていい)
これは回答者の尊厳を守るためだと言っていい。質問者も回答者もユーザーIDという記号に守られた個人だ。(サブアカの問題があるので唯一の個人とは特定できないが)質問者と回答者はポイントの受け渡しという行為により上下関係(主従関係とも言える)を定義されているが、相手の人格を否定する行為は許されるべきではない。
キャンセルは質問者が回答内容を完全に否定する行為だ。
相手のユーザーを尊重しない行動に正義はないとalpinixは考えている。ゆえに「無意味なキャンセルは許されない」と思うのだ。後に続く質問に悪影響がある? それもあるかもしれない。だが、根源的にはネットだろうが、というかネットだからこそ尚更、相手のIDを尊重すべきなのだと思う。


「何でもいいので回答してください。必ず全部開いて均等オープンします」
という質問があったとしよう(現実にあったが)。
 
ちょっと人力検索をかじった方なら、この質問がどれだけ質問者にとって論外なことをやっているかはすぐ理解できる(何を書かれてもキャンセルせずにポイントを配分しなければならないからだ)。
毎度毎度、この手の質問が上がるたびに一般的な質問なら「無効な回答」と言える回答が大量に投稿される(中にはそれでも質問者を何とか満足させることを狙った回答もあるが)。
もしこの質問についた解答が全て「何でもいいと聞いたので書きました(はあと)URL://だみー」が100件だったとしよう。そして質問者がキャンセルしたとする。
 
回答者の立場からみてポイントが配分されないのはおかしい、と100%の自信を持って質問者を非難できるだろうか?
 
逆に、設問の通り解答したのだから質問者がキャンセルする行為は許せない、と全てのユーザーが感じるだろうか?
 
以下下書き中