第三百二夜 マネジメントと教育の親和性についての雑感

出生率を上げる云々の話題が政策サイドでも取り沙汰されるようになりましたが、それとは無関係ではないよ、というレベルのお話。

子育てのための保育施設の充実やら、シングルマザーでも社会的に認められる社会やら、女性のM字曲線問題やら、「女性手帳」やら「女性手帳」やら「女性手帳」といった切実な「生める(生ます)環境/」の構築はもちろんですが、それとは別に「育てる環境」も改善していく必要があるだろうな、と感じます。
いや、別に「女性手帳」に恨みがあるわけではないですよ、決して。
でもそいう強迫行為を伴うお上からの政策って裏の意図が透かし見えてしまうので逆効果だと思うんです。既に枝葉の部分だけ切り取った反発や中傷や炎上狙いのマトメなんかがそりゃまあ、雨後のタケノコのごとくあちこちで目を出してますし。

では何の話かと言いますと、大学卒業(22歳〜)まで育てきって一人前、といった子育ての金銭的・時間的負担の増加もさることながら、昭和時代からひきずる「子育ての難しさ」の負担・プレッシャーを、どうやって親となる身の人達の意識から軽くしてあげるか、ということです。
 

「だって、子育てって難しいんでしょう?」
こういう反論に正面から回答できる知恵って重要だと思うんですよ。
 
その一つの答えがこれだと思うんです。
今、中堅サラリーマンに「管二病」が急増している
*1

嫌な上司のかわし方? いやそうじゃなく、マネジメントの話。
教育熱心な企業だとマネージャ育成のために手間暇かけて「手法」の具体的な手段をレクチャーしているけど、これって結構「子育て」に流用できるんではないかと常々思ってます。

というか、根っこの問題・課題とされているところに部下≒子供の共通点があるだろう、と。
数年前の常夏さんの小説のヒット関係なく、企業のマネジメントの世界ではマズローからドラッカーに至る哲学の教えはもちろん引き継がれてていて、「人間性の尊重」というは時代を越えた永遠のテーマなんだなあと思い知らされます。
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こんな上司が部下を追いつめる―産業医のファイルから (文春文庫)

こんな上司が部下を追いつめる―産業医のファイルから (文春文庫)

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個人的には「親は子供を教える(教育する)には向いていない」と思っていて、環境を整備してあげるだけのゼネラルマネージャに徹するべきだと思ってはいるが、昨今の少子化・核家族化・学校教育現場の教員不足の状況ではそうも言ってはいられない。
親が直接「教える」場面は避けて通れないのです。


「やればできるはず」

自分も含めて子を持つ親に共通の認識だと思うし、否定する必要はないんだけど自分がやってきて(等しく美化された)子供に求められる立ち居振る舞いって教条的なんですよね。

どうしても「一定水準以上」のアウトプットを求めてしまう。具体的にいうと○○さんちの○君にできてうちの子ができないのは許せない、もっというと自分が子供の時は・・・、というアレです、はい。

リンク先の引用記事を読んで思ったのは「ノルマを課すばかりでマネージメントしない」というパターンが子育ての現場に多そうだな、という感想。(我が家も気をつけないとそうなりがち)

「出来たところまでは誉める」「ストロークを上手く活用する」「ヒアリング重視のコーチング」といった技術の話なんかは、そのまま教育の現場、それも子を育てる親御さんに展開できそうな気がしています。というかすべきだと思います。

そういう知識を広めることは「生むことへのハードル」だけではなく「育てることへの漠とした恐れ」のハードルを下げることになり、ひいては少子化対策への一助になるんではないか、と密かに思っていたりします。

常夏さん風にタイトル付けると、

「もしも出来ちゃった結婚の晩婚夫婦がドラッカーのマネジメントを読んだら」

みたいなっ!

※そういえば、アマゾンのkindle版がセール品になっていました。
いろいろ常夏さんとこにも大人の事情があるんでしょうか。
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マネジメント[エッセンシャル版] - 基本と原則

マネジメント[エッセンシャル版] - 基本と原則


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追記:どうでもいいが「はまぞう」でkindle版と通常版が存在するとき、どっちがどっちかわからんので困る。id:hatenadiaryなんとかしてよ。
 

これでどう判別しろ、と?

*1:ところでリンク先の「この本のレビューを見てください。アフィ踏みたくない方用に引用しておきます。」という表記が気になって眠れません。商業冊子の本分を全文引用するときのオマジナイかなんかなのでしょうか? 症状は今朝からですが。

第三百一夜 "つながり過剰症候群"と"SNS依存症"

この一年スマートフォンを使うようになって、フィーチャーフォン時代に比べて明らかに画面を見る機会が増えました。

「いったい何を見てるの?」
同じスマートフォンを持っている嫁からも不思議なようです。
飽きっぽい私の場合、見ているコンテンツ/ツール/アプリは月単位、週単位で変わるので「いつも見ているのは何か?」という質問をされるととても困るのですが、スマートフォンのタッチパネルUIに慣れてしまうとフリップ式のフィーチャーフォンのもっさりしたUIでは「よほど暇な時でないと触る気になれなかった」アプリだのコンテンツだのをちょっとした隙間時間に見たくなる衝動に駆られます。
 
余った時間を勿体ないと考えるタイプの人は、同じ状況に陥りやすいかもしれないですね。

数年前からSNSが流行りだして"スマホ依存症"だの、"SNS依存症"といった言葉がよくあがるようになりました。その名称からコンテンツに頻繁にアクセスしている状態を「病い」の状態だとされています。
 
「○○依存症」という言葉には、所謂、"はまる"という状況よりもう一歩進んだ"中毒"の状態であるという示唆が含まれていると思います。
 
それっておかしくない? 病気ちゃうん?と。
 
とはいえ、冒頭に上げたような「UIが触りやすくなって短時間の隙間でもアクセス可能になったから」とか「アプリなどの新規性の高いコンテンツがどんどん更新されることによる飽きの無さ」だけが病理だとは思えません。
 
人間の意識といった部分に近しいところにある理由を探りたいと思います。

 
■つながり過剰症候群
社会学者の土井隆義教授が以前から提唱していた造語ですが、悪質ないじめ問題がニュースに取り上げられたことを契機にしてか、ラジオを中心*1に再び頻繁に取り上げられるようになりました。
 

 私は大学で、なぜ若い人が今の世の中で生きづらいのかを研究しています。そこで思うのは、「絆(きずな)」や「つながり」が重視されすぎているということです。

 親も先生も「人間関係を大切にしなさい」と言います。友達が少ないと、「私ってコミュ障(コミュニケーション障害)?」と不安になる人もいます。「相手といい関係を作り、損なわないようにしなければ」と信じ込んでいませんか。私はそれを「つながり過剰症候群(しょうこうぐん)」と呼んでいます。

 (2012年7月22日朝日新聞デジタル)
 
氏によると、教育・保育の場で「人間関係を重視し過ぎる」傾向が原因になっているのではないか、と提言されています。
バブル経済が終焉した後、金儲け至上主義が否定され「本当に困った時には人と人との繋がりが効いてくる」という教えが広まってきたように思います。震災の時にさらに重視される風潮が強まりましたが、「絆を大事にしよう」という社会的潮流そのものはもっと以前から教育のメインストリームにあったと思います。
 

思えば、Mixiから始まったSNSコミュニケーションが起点かと思いますが、「友達の数の多さ」=有力アカウントという価値基準が明確に、数字で表示されたことが大きかったように思います。友達の数が多いことで自己承認欲求が満たされ、反対に少ないことが引け目に感じる心理です。

余談ですが、有名な話で爆笑問題の太田さんは高校時代、友達が一人もいなかったにも関わらず負けず嫌いで皆勤賞をとったそうです。
http://d.hatena.ne.jp/LittleBoy/20110917
この話が有名になった背景には「友達が少ない」=「不幸である」という社会背景があると思います。まあ、会社ならともかく学校生活で友達がいないっていうのは想像するに恐ろしい状況で、このエピソードに関する限り尊敬に値すると思っています。
 
SNS中毒は何故起こるのか?
現在世の中に蔓延しているSNS中毒の10の症状
絆重視の社会的潮流からくる「友達の数」というファクトに加え、SNS中毒になる要因の一つにソーシャルの情報取得方法の高度化もあると思っています。
よく言われる「プル型」「プッシュ型」といった情報取得手段ですが、SNSはこの2つをできるだけ効果的に使うことでユーザーの意識をソーシャルサイトに向けさせます。また、Mixiにあった「足跡」機能はユーザー間での監視の意識を植え付けることで見る、見られる関係を作り出しました。
 
他にも、新着メッセージの表示とかありますね。

ログインしてみて「新着メッセージが1件あります」というので、なんだろうと思ってクリックしてみると「メッセージ一覧 何もありません」とかマジでふざけているのか。ちくしょうめ! ちくしょうめ!!

まあ、こういう釣り機能は人によっては逆効果になる場合もあるのでSNS側も気をつける必要はあると思いますが。
Mixiが衰退した要因もまた、この辺にあるのかもしれません)
 
 
結果、ユーザーは四六時中そのSNSを気にするようになり、ふとした拍子に、少しの時間の合間にアクセスを繰り返すことで、依存のスパイラルに嵌まっていくのだと思います。
また、ソーシャルメディアそのものが神格化されすぎた向きもあり、Facebookやってないやつは情報弱者だ、くらいの風潮も後押ししたと思います。
参考:元はてな・GREEのプログラマ 伊藤直也が語る、ソーシャルメディアの功罪。[前編]


そもそも、黎明期のインターネットと言えば技術であり、マスメディアに変わる個人情報発信の媒体であったように思います。
それが時代を経て、コミュニケーションの道具としての位置づけだけがクローズアップされていないか?
 
その最先鋭がSNS

http://shibuya-bfsw.blogspot.jp/2012/02/sns_08.html

最初に情報がたくさん入ってくるのが、なんだか楽しくなってしまい、そしてその情報を追っていないといけない気分になって、Twitterが気になってしょうがなくなる、という症状ですね。これはTwitterに限らず、Facebookなどでも怒ります。そしてこれがソーシャル疲れの根源でしょう。

Twitter中毒から派生して、SNSなどソーシャルのサービスを利用していると「リアクションが欲しい」「自分がどう思われているかが気になる」といった承認欲求・所属欲求が出てきます。これを満たすために、やたらとフォロアー数やいいね!の数を確認してしまうのでしょう。また、ある意味プライベートを公開している状態であり、見たくないものが見えたり、見せたくないものが見られたりするかもしれない、という心理的な負担もかかります。その心理的な負担を軽減しようと、いろいろと設定を細かくすると、今度は物理的に面倒になって疲れてしまっているように見受けられます。

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本当は怖いソーシャルメディア (小学館101新書)

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コミュニケーションを過剰に神聖視する状況と、プル型、プッシュ型といった洗練された人を引き寄せる手法。

週刊誌のサイクルから日刊紙、そしてメールを見るに近い、より身近なアプローチ。
数分後には「何か新しい情報が書かれているかもしれない」という期待感と、その十数分後には「さらに新しい情報にそれが上書かれているかもしれない」
という強迫観念。
 
SNSの中毒性は情報の即時性に寄っているのではなく、ユーザーが勝手に錯覚させれらているといってもいい希少性に寄っている。
 
「私だけが見つけた情報」
「他の人より少し早い情報」

本当にそんな貴重なものがSNSにしかないのだろうか? 
"友達"リストが3ケタいる人は1ケタしかいない人より幸せなのだろうか?
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友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル (ちくま新書)

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夢から覚めた時、人は本当に幸せになれるのかもしれません。
 
 

*1:私が耳にしたのは今月のTOKYO-FMだったのですが、調べてみると3月にも同様の内容で別番組にも出演されていましたhttps://www.tfm.co.jp/ch/index.php?blogid=39&archive=2013-4-17

第三百夜 世界政権西方移動説の提唱

それはまだ、バブル経済が弾ける以前の1980年代のことでした。

私の尊敬するある方*1がとある場所*2で当時の史学会を根底から揺るがしかねない自説を展開しました。*3
 
「世界的な政権は時代とともに西に移動する」
 
曰く、ローマ帝国に始まり、産業革命を達成したイギリス、その移民によって建国されたアメリカ、そして現代の日本、世界的に影響力のある大国の位置は地球上を西に移動している。
次にくるのは中国だ。

繰り返しますが、まだバブル経済が弾ける前の話です。
*4はその説に心震えました。
 
当時中国と言えば、まだまだ経済的にも貧しく(返還前だった)香港を除いて、共産主義政権下で経済が発展するような機運は全く感じられなかったからです。確かに人口だけは多かったですが、それだけでした。
 
その後私は史学の道に進み*5、パックスロマーナなる言葉、それをもじったパックスアメリカーナといった造語知りました。
 
よくよく考えると、西に移動というのは地球の自転方向に沿っていて、地球儀ベースで世界を俯瞰してみると西方移動説というものの面白さがより深まりました。
そして、天安門を経て実際に中国のGDPが日本を追い越す勢いであること、さらに西方のインドも新興国として発展してきている事実は、さらにこの説を興味深いものにさせてくれました。
 
「世界的な政権は時代とともに西に移動する」
 
以上、相関関係と因果関係のお話でした。
 
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*1:私の父

*2:そう、あれは居間の炬燵でした

*3:晩酌中の思いつきなので実際には全く揺るがしてはいないですが

*4:小学生の

*5:高校社会で世界史を選択

第二百九十九夜 満員電車で人は何故攻撃的になるのか

本文とちょっとしか関係ない話ですが、先日歩いていたら足を引っかけられた上にその人に睨まれました。
スマホ見てた私も悪いんですが。
 
駅の深度では有名な某地下鉄の駅、エスカレータを3段ほど登らないと地上に出られないんで、結構混雑します。
エスカレータとエスカレータの間の歩行区間はさながら有料道路の追い越し車線さながらです。
一人二人追い越したところで地上に出る時間はさして変わらんはずなのですが、それでも一人でも追い抜こうという人はいるわけで、そういう人がたまたま自分の後ろについていた日には悲劇です。更にたまたま、そういう人が私を追い越して、前に出たところ、私の靴とその人のパンプスが軽く引っかかりました。
スマホ見てた私悪いんですが、まるで私が意地悪してわざとひっかっけたかのように振り返って睨みつけてきたその人の顔が数日経っても脳裏から離れません。
 
大事なことなので一部強調しました。

 
私の経験はどっちかというとレアケースな悲劇なんですが、日常的によく発生する場面もあると思います。
そう、満員電車です。

中央線が数分の遅延で圧死レベル 飛び交う罵声 小学生「クソジジイ殺してやる」 4月22日
 
ほぼトップ画像が"出落ち"の状態なので恐縮ですが、引っぱってもしょうがないので割と有名な心理学的な回答を紹介します。

◆パーソナルスペース

http://www.athome-academy.jp/archive/philosophy_psychology/0000000234_all.html
ちなみに、記事内のとある助教授が、それっぽく言ってますが(インタビューアーの誘導かもしれないですが)パーソナルスペースの提唱者はエドワード・ホールという文化人類学者であってこの方ではありません。いや、なんでこんなサイトを参考文献にしたかって・・・他意は全くありません。

一般向けの著書を250冊以上刊行している。

一般向けの著書を250冊以上刊行している。

他意はありません。
 
 
 
このキーワード、ポータブル・テリトリー
とか
縄張り意識

とも言われます。
この空間、自律性の発達と関連があると言われていて自律性が高くなれば距離が広がるそうです。

年齢と共に大きくなって12歳頃にはおとなとほぼ同じくらい。この年頃の子どもが自分の空間を欲しがり、親と距離を置きたがっても、「親子の危機」というわけではありません。

ちょっと作りの凝ったサイトがあったのでご紹介。
http://www.j-cast.com/feature/kwu/chapter07/chapter07-02.html

まあ、簡単に言うと人は自分の身体の少し外側に「パーソナルスペース」という侵害されたくない距離感を持っていて、その内側に入ってこられると不快感を感じる、ということだそうです。その大きさは相手や状況によって伸縮するそうですが、満員電車の距離というのはその距離を明らかに内側に抉っている、ゆえに人は不快になる、という説明がつくとのこと。
http://youpouch.com/2012/08/22/78112/

「私の『パーソナルスペース』に赤の他人がぐいぐい侵入してきた!」こんな状況、満員電車が日常な私たち日本人からすると、よくあることですよね。しかし海外の電車通勤者たちにとって、これはバトル開始の合図!

彼らがそういった人たちに対してまず行うのは、「イヤそうな顔で凝視する」です。ひ、ひどい。「1個だけ席が空いてたっ! これで座れるっ」といそいそ席めがけて歩いていった途端、両隣の人に変な目で見られるなんて……渡る世間は鬼ばかりじゃあないですかっ

ここでは海外の満員電車慣れしてない人が、いかに窮屈な電車内でパーソナルスペースを確保するか、という状況を伝えていますが、実際問題日本人だって"慣れてるから我慢しているだけ"でパーソナルスペースに侵入されることを決して好んでいるわけではないと思います。その発露状況が、今日の中央線だったわけで、身長の低い小学性なら頭上からもパーソナルスペースを侵害されているのだから、イライラするのもちっとも不思議ではありません。


また、権威とか、自我が大きさによってパーソナルスペースは大きくなると言われています。縄張り意識のようなものなんですから、自分で自分を偉大だと思うようになればなるほど、この距離というのは広がるんです。そうなると、都心に向かう電車の方が郊外を走る電車よりもパーソナルスペースの侵害に憤慨している人の割合は高いはずなんですよね。単にそれを我慢しているだけで。
「ここまでは自分の領域だ、お前が譲れ」という領域が広がる。


とはいえ、このパーソナルスペースだけが満員電車で人が攻撃的になるかの原因というわけではないと考えています。

ちょっと特定するのははばかられるのでソースは伏せますが、通勤電車の中では、一度経った場所は"既得権"だと考える人が確かにいるようです。恥ずかしながら私もそう考えることはあります。
一度座った座席は(老人が正面に立つまでは)降りるまで自分のものだ ⇒ 一度つかんだ吊革は自分が離すまでは自分のものだ ⇒ 一度占有したドア脇のスペースは自分が降りるまで(以下略)
みたいな!

どこからどこまでを既得権と感じるか/考えるか、は人によって差異はあるとは思いますが。


人は既得済み(と自分が考える)モノ、情報などに固執する傾向が強いようです。
”先に触ったもん勝ち”と言えるかもしれません。
これは日本ではルールといってもいいかもしれないです。
なぜならそれは「幼児教育から教育の現場ででそれが正しいから」と教えるからです。

例えば、手元にある古文書を紐解いてみるしょう。
そこには、
”simajiro”なる男が他の子が遊んでいる玩具を自分も使いたいからという理由で横からもぎ取る。それを見ていた先生は「まあsimajiroくんって力が強いのね」と誉めたりはしない。先に触っていた子の優先権を認めさせるべく、simajiroに謝罪と玩具の返却を強いる。
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しまじろうとフフのだいぼうけん~すくえ!七色の花~

しまじろうとフフのだいぼうけん~すくえ!七色の花~


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子供向けの教本に「先に触ったモノに占有権がある」と明確に教えているのです。そりゃ多くの日本人がそう考えるのも無理はありません。

つまり先に掴まった吊革は(それを離すまでは)掴んだ人のものだし、先に座った椅子はその人のものだし、列車のドア横にある微妙な人一人立てるだけのスペースは先に立った人の占有物なのだ、という暗黙の了解。

お互いに了解されているはずなのに、それが衝突に繋がるのも不思議なことですが、「占有権が保持される期間」が人によって異なってくることで、そこに争いが発生するんだと考えられます。

一例を上げましょう。
駅に着く度に、ドア付近の人が一度車外に出ないとおさまらないようなラッシュ&乗り降りの激しさだと、持っている吊革も、握っているポールもリセットされるのが当然という考えと一回リセットだろという考えが衝突する。

ある意味、理念信念のぶつかり合いだから落とし所を見つけるのは難しい。

というか満員電車の場所取り戦争に「落とし所を見つけよう」という人よりは「勝ち逃げしよう」と考える人の方が圧倒的多数だろうし(これソース要るかな?)。
ということで、冒頭の事件に遭遇してから、ドアを開けたら出来るだけ向こう側にいる人を優先しよう、のを心がけているalpinixの雑感でした。貴方の事務所でやけにドアを譲る人がいたらそれは私です。

さて、既得権益とか調べているうちにとても懐かしいこころ和む10数年前のサイトに辿りつきました。もし皆さんが万人電車でイライラしたらこれを思い出してこころ休めていただければ幸いです。
 
 
 


侍魂 SAMURAI SPIRITS ~Arrange Sound Trax~

侍魂 SAMURAI SPIRITS ~Arrange Sound Trax~


 
  
 

第二百九十八夜 双葉町には四つ葉のクローバーが多い、といったデマはどうして広まるのか


「庭の一角に四つ葉のクローバーの群生地があったよ!」と教えられた。
引っかかったのは、その続きで「双葉町にも四つ葉のクローバーの群生地があるってネットにのってたよ。怖いね〜」とのコメント。聞いた瞬間にオチが読めたのだが、その場では触れずに我が家の"群生地"なる場所を確認した。
教えてくれたその場所は、日当たりが悪く、子供たちの通り道になっている場所だった。

四つ葉のクローバーができる理由

クローバーが四つ葉になる理由には大きく2つの要因がある(と現在はされている)
さっくりまとまっていてかつ信頼できるサイトから引用。
レファレンス協同データベース

1 原因
所蔵図書・雑誌には記述が見あたらなかったが、同様の質問に専門家が答えた下記2件の情報を紹介する。2件とも植物発生遺伝学研究者の塚谷裕一氏が回答。
1)「ののちゃんのふしぎ玉手箱」(『朝日新聞 2005年3月5日』夕刊6面)に「四つ葉のクローバーはなぜ四つ葉なの?」という質問が掲載されており「原基という葉の赤ちゃんや遺伝子に異変が起きている」と説明がある。
2)日本植物生理学会のウェブサイト( http://www.jspp.org/  2007/06/19最終確認) 内の「みんなのひろば」に質問コーナーがあり、「四葉のクローバーと突然変異について」という質問が掲載されている。
四つ葉のクローバーの発生理由として、以下2通りの説明があり。葉の原基(げんき)は「非常にデリケート」で、「その部分が踏まれたりして傷ついたり、あるいは逆に栄養が多すぎたりすると」発生する。また、園芸店などで売られている高い確率で四つ葉になる品種は「突然変異のため、3つ1セットにする仕組みそのものが変化してしまったもの」と記述あり。

結果として、四つ葉のクローバーは、
1)突然変異を起こした群落に集中的に発生し易い
2)日当たりが悪かったり、踏みつけられる場所に集中的に発生し易い
ということが分かる。
ちなみに三つ葉の、四つ葉の、と言っているが実はアレは3つで一枚の葉らしい。
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よつばみたいに結んであるだけで一人分の髪の毛、というのと同じらしい。

よつばと! 12 (電撃コミックス)

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閑話休題
で、発生している事象が「原発の近くだと四つ葉のクローバーが沢山できるらしい」という、どこぞの釣り師が作ったと思われるまことしやかな眉唾話が拡散している状態。別に私は危険厨でも安全厨でもないのだが(強いていえばソース厨か)初見で怪しさを感じてしまった。大体双葉町って埼玉スーパーアリーナに町議ごと避難してたというニュースが出てたくらいなのに一体誰がそれを見たんだよ。研究調査として入ったのならそれなりの人物名が出てこないとおかしいだろう、と。

まあネットで探してもこれの元ネタを見つけるのなんか無理だよなあ、と思ってダメ元で検索したら、存外にあっさり見つかった。(こういうのは大抵追いかけても出自があやふやなことが殆どなのでかなりのレアケースだと思う)


「まるで絨毯のよう…」 幸福の四つ葉咲き乱れ 福島・双葉町(虚構新聞 2012.04.20)

原発双葉町⇒四つ葉のクローバー という連想なんだろうが、正直この記事に関して言えば「虚構新聞にしては品のないネタだな」と不快感の方が先に立った。まあ虚構新聞だからこそ「デマの元」が証拠保全されていて、その点に関してはいいんだろうが。
1年ほどめぐりめぐって断片的な口伝え情報だけが独り歩きしている状況を考えるとどうなんだろう、と思わずにはいられない。
(断っておくが、個人的には虚構新聞のスタンスは嫌いではない。)

状況証拠しかないので断定はできないが、情報が(悪い方向に)断片的に独り歩きしている要因の一つはツイッターの存在だと睨んでいる。
虚構新聞のタイトルでggrksを行うとタイトル引用や本分のセンセーショナルな部分だけを抜粋したツイートが複数引っかかってくる。
元記事から一年たった今でも、だ。

ツイッターの恐ろしいところは「誰も悪者はいないのに一次情報が捻じ曲げられる」「本来争わなくていいのに事象の枝葉の部分で論争(と言えば聞こえがいいがただの罵り合い)が発生するところだ。

alpinixがツイッターをやらない最大の理由は「140文字のつぶやきでは自分発信の主張の正確性を担保できない」から。決してalpinixというアカウントが北欧の若造に先行取得されていたからではない、断じて!
*1

個人攻撃になるので一々例示しないが、ツイート文を見ただけでは「それが虚構新聞という、いつもいつも嘘ばっかりついてる狼中年のサイト」だということが分からないツイートが確かに存在する。
*2

それを見た人が「双葉町に四つ葉が多い」を事実として一度受け取ってしまう可能性は多いにある。都市伝説にありがちなパターンだ。
訂正記事を出せばいいんじゃないか、いやその記事を読まない人もいるんじゃないか、という水かけ論もあるのだけど、「Web上に記事が載ることの危険性」として大きく2つ根拠を提示したい。

■アンカー効果/一次効果
まずは一つ目、根本的に人の特性として、少し前の記事だがこういうものがある。
研究結果:人はオンラインで即座に訂正されても虚偽情報を信じ続ける

一旦情報として提示された内容は人の頭の中で覆されるためにはより多くのエネルギーが必要なのだ。
所謂アンカー効果(アンカリング)というやつ。情報操作としての見地からは一次効果と呼ぶらしい。
どういうことかというと、見積もり提示にちょっと大きめの金額をふっかけておいて、後から少し安い金額を提示することで顧客は割安感を感じるといった現象・・・えっ僕はやりませんよ?

*1:じゃあブクマの100文字はいいのかよ、という突っ込みには、アレは一次情報に対する二次コメントだから(100文字でも足りることが多い)、と考えている。逆に100文字で突っ込みきれない反論なら記事に不快感を感じていても敢えてブクマしないことも多いし、単に「俺もそう思う」的なブクマコメントは全く意味がない(今のブクマではスパムですらある)のでこれも敢えてブクマしない。

*2:虚構のUK氏が妙齢の美少女である可能性は否定できないが、狼中年という表現は不適切かもしれない。虚構だけに。「幸福の」という枕言葉を使う年代が妙齢とは思えないけどね。

第二百九十七夜 あるぴにっくすの人力検索着想ノート 其の二

人力検索の設問のコツは「隙を作ること」ではないかなあと思ったりしています。クイズとして成立しないのは不味いですが、100の回答しか得られない質問より、質問者が期待した100の回答を上回る120の回答がつく質問が作れればいいなあと考えているからです。いわいる化ける質問ですね。

http://q.hatena.ne.jp/1290007944#a1047492
 
どうやって「とりあえず入れとけば面白いことが起きそう」な質問を作るのか?
 
質問者にとって、永遠の課題かもしれません。(僕だけ?)
 
でもこれって人力検索に限らず、突き詰めるとクリエーターの求めるものと同じなのかなあ、とは常々考えてはいました。
魅力ある作品って、どんな分野でも似た側面を持つのだということなのかもしれないな、と。
 
それは、僕の中では下記のようなものとしてとらえています。
 
1.土台がシッカリしていること
2.誰もが目を引きやすい魅力ある内容が表面にあらわれていること(キャッチーともいう)
3.スピリチュアルに傾倒していないこと
4.3にも関わらず、一見すると非論理性や非合理性を孕んだ不可思議さを持っていること(本格の要素に近い)
5.内輪受けを狙ったような閉鎖性を排除すること
6.5にも関わらず、リピータの心をくすぐるコンテンツの連続性があること
7.冗長過ぎないこと
8.回答者の自由度を損なわないこと(回答手段や方法を限定し過ぎて、所謂"ガチガチ"の状態にしないこと)
 
といったことがあると思います。(他にもあるかもしれないですが、ここでは思いつくままに記述しております)
参加型コンテンツということで若干当てはまらないところもありますが、有名ブログになるための要素といったものに近いと思います。
 

1.土台がシッカリしていること
質問として、ブレがあったり、範囲が膨大すぎると収集がつかず、結局回答者の興味を失うことになります。一度興味を失われた質問者はその後、敬遠される場合があるので「ブレた」と感じた場合は即打ち切った方が無難かもしれません。
 
例えば、哲学的な質問をしている場合に、別な視点の宗教的な回答が混ざってくることがよくありますが、丁重にそれは求めて言うものと違う、と宣言しないと、本来集めるはずだった回答者を排除してしまうことになります。
 
2.誰もが目を引きやすい魅力ある内容が表面にあらわれていること(キャッチーともいう)
リニューアル前には画像付き検索が有効な手段でした。質問のミスリードも含めて最も効果的に画像を活用できたのは
http://q.hatena.ne.jp/1304665602
これでしょうか?
 
また、質問のトップセグメントの文言には細心の注意が必要な場合があります。括弧【】囲みを使う場合は、それが意味する文言が「人によって捉え方が異なる」「説明口調は却って逆効果」「煽り過ぎなキャッチも逆効果」ということを踏まえておく必要があると思います。炎上マーケを狙うならそれでもいいのでしょうが、前回に書いたように真の狙いは「ポジティブな継続ウォッチャー」の獲得なので、反感を買うような行いは慎むべきでしょう。
 
(こうやって書いていて気付いたのですが、質問のコツというか人力検索でうまく質問を回すには「功利主義的」見地から進めていくのがよいのかもしれません。単に僕が功利主義に舵を切っているだけかもしれないですが)
 
3.スピリチュアルに傾倒していないこと
これはあるぴにっくすの主義のようなものもあるのですが、スピリチュアルに傾倒してしまうと、どうも定常的に参加している人力検索のユーザー層と合わないんですね。理系若しくは、現実主義的なユーザーがコアを占めている(今は違う)はてなでは、スピリチュアルな話題は敬遠されがちです。
  

4.3にも関わらず、一見すると非論理性や非合理性を孕んだ不可思議さを持っていること(本格の要素に近い)
これは手法の問題です。Q&Aというよりも物語とか商売の手法に近いです。
心理学的にも、初見で結論が予想できるものよりも、一旦不審や不可解な印象を持ったのちに、その謎が解けるパターンの方が、ユーザーの心を掴みやすいようです。そのため、一見だけでは謎だけど実は裏があるんじゃないか? と思わせられることができれば、この段はかなり成功だろうと思います。でもそれは継続性とも連動しているので一回の質問で構築するのは難しいのかもしれません。
 
やはり
http://q.hatena.ne.jp/1304665602
これが例としていいでしょう。
 
考えてみるとこの質問はミスリードの手法を注ぎ込みまくった(個人的には)質問としての傑作です。

 

5.内輪受けを狙ったような閉鎖性を排除すること
継続ウォッチャーを囲い込むことが目的なのですが、都度増える可能性のある、新規ユーザーを遠ざけてはいけません。その意味で、キャラクターなどの固有名詞の使いまわしや、身内にしか分からない隠語での作問は演出などの効果を狙ったものを除けば避けるべきです。
 
そういう意味でlionfan氏のB美D菜は、格好のキャラクターでした。著作権の心配が無い上に、キャラとして安定していて、なおかつアルファベットが文字に含まれることで人格の普遍化が図れました。特定の商品やメディアのキャラでないことで閉鎖性にも陥っていません。全くもって合理的なキャラの名付けだと思います。そこにもいつも感心していました。
 
 

6.5にも関わらず、リピータの心をくすぐるコンテンツの連続性があること
3〜4回に一回の周期でのリピートに近い質問の投入、回答者の前回履歴や他質問での回答への言及など、参加しさえしてくれれば、ここはどうにでもなります。クスグリの手練手管はやってくうちに磨けるでしょう。 相手を否定しないこと、個人情報に突っ込まないこと、などの配慮は必要でしょうが。
 
7.冗長過ぎないこと 
質問文に500字制限があるので大抵は大丈夫でしょうが、コメント欄を流用したりダイアリに誘導したりする場合には注意が必要です。普通のユーザーなら質問文の500字に収まっていない質問はそれだけで、見向きもしないと想定すべきです。継続ユーザーなら我慢して見てくれるかもしれませんが、質問文に500字、コメント欄にもさらに500字とか書いてあったら、回答者はうんざりして読んでもくれないことの方が多いでしょう。よほど巧い文章か暇な回答者なら別でしょうが。 
ちなみに私がいつも目標にする質問文はこれです。
博士がその数式を愛した理由
http://q.hatena.ne.jp/1105776057
ここまでうまくまとめられた試しはないのですが。
 

8.回答者の自由度を損なわないこと(回答手段や方法を限定し過ぎて、所謂"ガチガチ"の状態にしないこと)
ということで核心部です。
冒頭で述べた「隙を作ること」になります。
これは度が過ぎるとザルだの、穴などと言われかねないので匙加減が難しいのですが、回答者というのは質問者の手の平の上で遊ばれるのは一部を除いて好まないだろうと僕は思っています。実際僕もそうですし。
つまり予定調和は面白くない、ということなんです。
質問を見た瞬間に回答者が「こういう回答とこういう回答がついて、それでこれがBA(いるか)になって質問者からこういう講釈が入って終わるんだろうな」と想像されてしまうような作りでは興味を持ってもらえないのです。
 
その企みが最もうまくいったのが
http://q.hatena.ne.jp/1295505522
「「アンパンチ」と「ライダーパンチ」はどっちが強力なのですか?」
でしょう。(企まないことを企む、というかなり難しいことなので、分かっていてもそう巧くはいきません)
 
(勿論、すばらしい回答者に恵まれたことがあの質問が成立した最大の理由であることは分かっていますが、あの阿吽の呼吸はあの質問一回でできたわけではありません、いるかをつけたmeeflaさん、sylphid666 さんとはそれ以前の質問で何度かかかわりを持っていて、あの質問に到るまでの伏線はあったからだと思っています)
 
でも法則らしきものがあることは随分前から勘付いてはいました。このアンパンチVSライダーパンチはブクマを多く集めて、ホッテントリ入りまで成長した、親としては出世頭の息子なのですが、以前にも似た状況まで行ってくれた質問があったからです。
多分最近のユーザーは知らない(覚えてない)と思うので紹介しておきます
http://q.hatena.ne.jp/1257478881
妻がどこからか「0歳児を動物園につれていくと免疫がついていいらしい、と有名な脳科学者が言ってた」との情報を得て、動物園に行くことにしました。
 
「化けるには質問は隙がある」ということに気付かされたのはこの時です。
 
ひと様の質問で、この条件を最近満たしていて「うまいなあ」と感じたのは、akagi_paonさんの
カレーのやつですね。アレはよかったです。SALINGERさんの回答とのセットが絶妙でした。 

それにしても面白い質問を作るのって難しいですねえ。
 
さて、次は・・・・質問の進行方法についてでも書きますかね。
誰も読んでないと思いつつリクエストあれば何かコメントしてくださいな。
 

今週のお題「小さい秋、見つけた」


朝鮮朝顔の実、だそうです。
近所の河川沿いの小道を早朝歩いていたら、不思議な実があったので寄って見ていました。
なんだろうなあ、としゃがみこんで見ていたら、後ろから近所の方らしき老夫人がやってきて「朝鮮朝顔って言うそうですよ、不思議な実ですよねえ」と上品な説明を添えてくれた。
 
秋空の下で気持ちもすっきりした一日だった。