映画評 容疑者Xの献身(yahoo映画レビューの続き)

久々に更新、かと思いきや、実は検索千夜一夜ではありません・・。

最近文章そのものを書かなくなっていたのですが、映画を見る機会がなんどか続き、折角だから感想とか残しておこうと重い、Yahoo映画に投稿しようとしたら・・・
「文字数オーバーです(2000字)のエラーが(泣)。。。。word機能で調べてみると書いた文章4600字、こりゃ短縮はむりだなーと、はてなに投稿しておくことにしました。

以下小説に関しても共通のネタバレありの感想なのでご注意を!

「映画評 容疑者Xの献身
〜ミステリー見せかけた純愛ラブストーリー〜「天才物理学者VS天才数学者」


さて早速ですが、本編の石神の台詞に「幾何の問題に見せかけて実は関数の問題」というものが出てきます。これは壮大な仕掛けになっていて映画全体の仕掛け、ミステリーに見せかけた純愛小説という構図、を暗示しているのではないか、と思わせてくれます。

僕は原作は出版後すぐに読みましたがTVドラマは見ない性質なので、ガリレオシリーズが人気ドラマだったことを知って「ドラマから映画かーしかもFNS」と食傷気味ではありました(トリックや踊る大走査線の苦い経験があったので)。しかしたまたま時間があいていい映画ないかなーと探していたら意外の好評価のこの映画、ではいってみるか、と足を運びました。

感想としてはドラマの延長というより、原作に忠実に作っていい意味でうまくいったパターンだと思います。最近では20世紀少年も見たのですが、こちらも原作に忠実につくったにもかかわらず、「いまいち」な感があります。この違いは原作の本質のところを忠実になぞれたか、なぞれなかったか、の違いではないかと思われます。
20世紀少年は確かにストーリーは原作に忠実に作られました。その結果3部作という超大作!? に仕上がり、少なくとも1作目は原作のもつ「わくわく感」、なつかしい昔時代の思い出、といった部分を置き去りにしてしまった結果でしょうか。

一方、容疑者X〜は「その謎を愛そう」というキャッチコピーにもこめられているのか、原作の本質である(と僕が思っている)、謎解きではなく、石神に込められた思い、を忠実に再現できたことがうまくいった原因だと思われます。ドラマは見ていないのですが、いくつかのレビューを見る限り、もっと軽妙で、もっと単純に笑え、湯川の変人ぶりを楽しむ、という素因があるようですが、映画版ではその部分を原作に忠実に徹底的にそぎ落とし、石神の行動の要因・そしてその仕掛けた罠、罠を解いたあとに待つ哀愁を中心に据えたことで、軸がぶれなかったのでしょう。

映画版冒頭に「なんじゃこりゃー」という科学?実験が行われるのですが、これ、本編とは全く関係がありません。原作にも存在しないし、明らかにドラマ版の視聴者を意識した場面です。石坂・八木というキャスターも無駄に大物ですし、「もしかして予算の大半は冒頭のこのシーンに使われたのでは?」と危惧してしまいます。
興行的にこういうシーンが必要?だったのかと残念に思ってしまいますが、そこからストーリーはおどろおどろしい人間ドラマ中心で物理だの数学だのという話はほとんど絡んではきません。導入部で観客を引かせないためのものだったんでしょうか。
(映画の冒頭がアパートの殺害シーンじゃあまりに、だもんねー)
でもこのシーンの最後にちょっと気になる会話があります。湯川と内海の「愛」に関する会話です。そこで湯川は「愛」について検証することの無意味さを徹底的に論じます。内海が匙を投げ、湯川が「それでよろしい」と締めますが、ここに実は伏線があったとは・・・(深読みかな)

さて、ミステリーに見せかけた純愛ラブストーリーという解釈ですが、これは原作にも共通するところです。
原作は直木賞他、多数の賞を受賞した作品ですが、これに「本格」論争がかかったとwikiにはありました。正直「本格」論争なんていまさら何を、と僕はいいたいところなのですが、(東野作品は本格かどうかなんて作者はきにしていない、もしくは、超殺人事件を書いたことで本格小説のあり方なんてことに興味を持っていないのではないかと思っている)この小説が賞をとれたのは、謎解きではなく、推理の先に待つ人間性があったからだと思うのです。
単純な(と言う言い方が正確ではないかもしれないが)本格推理はあくまで謎解きに焦点を絞ることで、人間性・ドラマ性を割愛してきました。割愛という言い方が良くなければ、謎解きがいかに論理的か、というところに力を入れるため、その他の面が軽視される傾向にありました。東野作品は初期の作品ではその傾向がありましたが同じく映画化された秘密あたりから「謎」そのものではなく、なぜその「謎」が必要だったのか、そして「謎」を解いたあとに現れる人間ドラマに重点が置かれているのです。例えば、石神が犯した犯罪トリックはDNA鑑定が行われる可能性を無視していますし、読者をミスリードするかのような描写トリックが行われます。でもそういう要素を無視することで成り立つ謎の先の真相のドラマを主軸にすることで、それが作品のヒットにつながり、容疑者X〜が生まれたのだと思えるのです。

「その謎を愛そう」は福山の口調で耳にすると「軽いキャッチだなー」と感じるかもしれませんが、実はこの言葉の裏には石上の献身的な愛情と湯川をして天才と言わしめた頭脳から導き出されたトリック、その末に待つ石上の献身的な姿を「愛してくれ」と言っているのだと、感じました。

映画の出来は先にも触れたとおり、ドラマではおそらく完全な主役を張ったであろう湯川(福山)&内海(柴崎)を押しのけ、石神(堤)を中心に据えることでサスペンスから純愛へ、という流れをうまく演出しました。
小説では表しにくい「もしかしてこいつ悪なんじゃー」と観客に思わせる演出を映画では堤の演技・表情の演出で見事に表していました。

ストーカー的な行為に見せるホテルでの追跡シーン
雪山でもしかして湯川を殺すのか?と思わせる登山シーン(こっちは原作にはなかったと思う)
自宅のプリンタからカタカタ出力される「密会の現場写真」
は原作を読んでいる僕も「はて石神ってこんな悪役だったっけ? と勘違いさせてくれました。

物理・数学の話をそぎ落とした中で、四色問題を効果的に使っていたのも良かった。ラスト近くの監獄の中で天井のシミが地図に置き換わっていく映像(ちょびっと昔のマイクロソフトのCMに似てるなーとも感じましたが)二人が持っている書籍の分厚さ(湯川が高校の前で石神を待つ際に手にしていた分厚い書籍)などは二人が「学究の一般人とは違う世界」の人間というところを魅せてくれた。なぜ石神が花岡親子を助けようと思ったのか、という動機付けの回想シーン。説明的な台詞無しで進むあの場面は、映画ならではの表現で納得(石神の行動に)できるものだった。

さていいところはこの辺にして、気になった(気に食わないところ)もいくつかあった。
その一つ目は山場? と思われる雪山シーン。
おそらく研究所(大学)→アパート→弁当や→警察 といった絵だけでは(冒頭シーンは別にして)映画としての壮大さが出ないと思ったのかもしれませんが、やるならもうちょっと考えて作ってくれよーと思わずにはいられませんでした。
おそらく間違ってはいないと思うが、石神=湯川に真相に迫られて最後のカード(自首)を切るのかどうか、観客=もしかして邪魔になった湯川を石神が山で殺しちゃうの? という構図を出したかったのかもしれません・・・。

でも! あんな吹雪の中でザイル出さないで普通歩きません! (トップを歩く人間からザイルを渡すのが普通です。ザックにはちゃんと使い古したザイルが吊ってありましたから、あれは飾りか? と突っ込みたくなりました。)それにあんなにふぶいていて素人目にもふらふらしている湯川を連れて強行して山頂に向かうのはありえません。
こっそりICIスポーツのロゴが入っていたのが見えたのでWiiテニスと同様スポンサーの意向で山頂に立たせたかったのかとかんぐってしまいます。
結果から見ると石神に殺意がゼロだったのは明白ですし、そうなら雪山は単純に湯川がどこまで真相にたどり着いているのかを探り、また最後になるだろう山を楽しみたかっただけでしょう。
何より小屋泊まりにしても雪山の無人小屋なのだから荷物少なすぎ。

二つ目は賛否両論あるかもしれませんが、石上と花岡(母)との電話シーン。画面を2分割して二人が向かい合った(ように見える)構図は正直「これはドラマか?アニメか?」と感じられて気持ちいいものではなかったです。石上にとってこの電話は連絡手段でもあり、ある意味屈折した「愛」の提供の場でもあったのでもうちょっと切ない演出ができなかったのかなあと残念です。僕的には二人の映像は「話を聞いている方」の映像で会話ごとに切り替えの方が余韻があってよかたのでは・・・。

最後に三つ目はラストのネタバレにも繋がるのでご注意を。



ラストもラスト、湯川の尋問?にも耐えた石神が移送されるシーン。なぜか花岡(母)が留置場の建物の奥に居ます(なんで奥から出てくる?)。まあそれはいいでしょう。その後、「あなたにだけ罪を背負わせるなんてできません」といった(正確に覚えていないがそういう内容)台詞を言って、それを聞いた石神が簡単に「どうして・・・」とすべてを認めてしまいます。最大の強敵であるはずの湯川を乗り切った後で、なんの証拠も見せないあの台詞一言で完璧な偽装を行った石神が崩れるのははっきり言って違和感がある。
さて原作ではどうだったのかというと、彼女は事前にすべてを白状したといった描写があるので映画ほどの違和感は無い。
ではどうすればいいのかというと彼女の立場に立ったときに、あの完全なアリバイ工作・偽装殺人を計画した石神を諦めさせるには「茶封筒」の存在を明らかにするほかない、と即座に思いました。

燃やせ、と指示されたあの感動の文章を「とても石神一人の背負わせきれないと感じた花岡母が処分するにしのびず警察に見せにきた」といった映像がほしかった。
原作とは異なるけども、あの一瞬で映像で観客にすべてを理解させるには「茶封筒」の絵は効果的だしそれを見て、すべてを理解する石神の心も理解しやすくなるのではないだろうか。

さてさて、感想はここまでにして予告編等に出てきたもうひとつのキャッチ「天才物理学者VS天才数学者」湯川VS石神の勝敗だが、結果はどうだったのだろうか。

本編で「絶対に解けない問題を作るのと解くのとどちかが難しいか」という命題を湯川が発し、湯川VS石川 という構図がバシッと表面化する。
もちろんこれは湯川が「条件として解は必ず存在する」と補足したことで前者の方が難しいのはすぐに分かるのだが(小説ではもっと明示的に前者の方が難しいと書いてあったと思うが)勝敗の結果自体はどうなのか。

湯川は石神の方が自分よりも天才であったと考えている節がある。それはこの台詞にも現れているし、(暗にお前の方が難しいことをしていると指摘している)最初に石神のアパートを訪れた際に、数学教授の証明論文の検証を依頼している場面でも見受けられる。石神はこの時点では湯川を危険視していなかったのか、それとも単純に数学者としての気負いがあったのか、わずか6時間で検証を行い、湯川を驚かせる。

この後、別の場面で湯川が一斗缶で何かを燃やしている場面があるのだが、湯川は「レポートを焼いている」と素っ気無く答えたが、実は石神の検証を燃やしていたのでは、と僕は勘繰ってしまった。
(本来は湯川は事件の検証のために服が燃えきらずに一斗缶で焼くにはどうすればいいかを試していたのだと思われるが映画内ではこの部分に説明が無い。原作を読んだ僕には、湯川が石神に出した問題は実は既に反証が出ているものなのでそもそもは石神の頭脳が衰えているのかどうかを検証するために持っていったもの、ということは分かっているのだが。)

つまり勝負と言う点だけで言えば湯川は最初から石神に白旗を揚げている。
仮説の上では石神の犯行内容は想定できているが、それを検証する術が無い、しかも問題は作る方が難しいのだと認めている。勝負に負けた湯川はそれでも友人を救うことができないかと苦悩したはずだが、石神の作った罠「仮に謎が解けたとしても誰も幸せにはなれない」という湯川を足止めさせる究極のトラップを仕掛けていた。


さらに言えば石神は全ての複線の上に、仮に警察以外の湯川のような人間が真相にたどりついたとしても「自分の裁判が結審するまでにそれを証明するための手段・時間が無い」という或意味反則気味な完全犯罪を成し遂げる。湯川は論理的にそれを証明する手段が無いため、結局は花岡母に全てを打ち明け、最後の賭けにでる。


そして結末はご存知のとおり・・・・。

論理合戦としては石神の勝ち、しかしその論理を破ったのはあくまで花岡母の愛であり、湯川の手柄ではあくまで無い。勝負に勝って試合に負けた石神、そう最後に勝ったのは、湯川が冒頭の例の実験シーンの最後に、論じる必要が無いと説いた「愛」が全てを解決するのです。

じゃあ、勝ったのは誰かというと・・・・実は冒頭で湯川に「愛」の必要性を説いた内海(柴崎)でした、チャンチャン、というオチで、さんざんぱらあちこちで言われている映画版内海不要論に反証してみたところでおしまい。