第二百九十夜 アジアとヨーロッパ 東洋と西洋


 
http://q.hatena.ne.jp/1271581255#a1010151
meeflaさんお疲れ様です。興味深く質問を見させていただくと共に、この質問を読んでいるうちに古い記憶がよみがえってきたのでエントリすることにしました。

それはアジアとは? の問いかけです。
俄然この分野は萌え燃えます。
 
meeflaさんの回答やリンク先にも色々と出ていますが、アジアという語は「東」を意味する言葉でヨーロッパから見た東の方を指す、本来はあいまいな語でした。元々は現在の小アジア=トルコ/アナトリア辺りを指すものでした。
 
似た言葉にオリエント、オクシデントがありますが、こちらは「日が昇る(方)」「日が沈む(方)」を指す言葉で、日を見ている主体は古代ローマ人でした。こっちは探せばソースはいっぱいありますね。
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&source=hp&q=%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%88%E3%81%A8%E3%81%AF&aq=f&aqi=g-m1&aql=&oq=&gs_rfai=
 
一方、アジアの主体(東の方と認識している主体)は私の記憶が確かならば古代ギリシア人なのですが、(ギリシアから見て東の方をアジアと呼んだ)どうもソースが見つかりませんねー、無理やりさがしたところ・・・・ありました。
http://www.hokuriku-u.ac.jp/ieas/column/02.html

そもそもAsiaとは、古代ギリシアで生まれた概念であり、Asu(日、出ずる処)を語源とし、Erebu(日、没する処)から派生したEuropeの対概念である。つまり東アジアとはギリシア、ひいてはそれを母体とするヨーロッパ文明の世界観において、東方の最果てに位置づけられるものであり、

意外と僕の知識も錆びてないようで一安心です。

その後、ヨーロッパ人の知りうる東の地域がアレキサンダー大王の東征からインド、中国までひろがっていったのですが、頑固な彼らはそれら全てを自分たちから見て東にあるのだから「アジア」と呼んだのです。そのため「アジア」と呼ばれる地域がとてつもなく広大になってしまったというお話。
加えて、元々アジアと呼んでいたトルコ/アナトリア地方をどう呼べばいいのか、困った彼らは頭に小をつけて「小アジア」、後から見つかった広大なアジアを「大アジア」と呼んだそうです。(今では大アジアという呼称は絶滅しているようですが)
 
 
で、この話に関連して東洋と西洋の話も思い出しました。若き日の私が「東洋史概論」(だったと思う)で〇〇教授(教授の名前は忘れたが講義の中身はとてもよく覚えている)の講義で教えてもらった記憶です。なぜか東洋・西洋の講義の日の光景だけは教室の混み具合まで含めて鮮明に記憶しています。
 
それは東洋、西洋という呼称にはアジアやヨーロッパとは違い、ちゃんとした名付け親がいる、という講義内容でした。(wikiではヨーロッパの名付け親はヘロドトスと書かれているが"要出展"扱いになっている。私もヘロドトス命名説は聞いたことが無いのでここでは敢えてスルーしました)。
 
その話を書く前に検索で東洋、西洋の名付け親の話の裏取りをしてみようと思ったのですが・・・ばっちりなのがありません。
http://blog.canpan.info/fukiura/archive/2211

 明時代の中国で布教し、
欧州文明との交流にも努めたマテオリッチが
『坤輿萬國全圖』(1602年)で
「西洋の大きな海」といった意味で「大西洋」と用いたのが始まり
という説と、
大アジアを意味する大東洋に対する大西洋が
海の名前になったという説がある。

http://library.pref.oita.jp/reference/case/oita/a_014.html

“坤輿万国全図”の特徴はヨーロッパ製の世界図をもとにしながらも、大西洋を中心とせず、太平洋を中心にし、中国が図面の中央近くにくるようにしたこと、中国人に理解されるように図中のアルファベットをすべて音訳して漢字で表記した最初の世界図であることです。地名や地理学用語の漢字表記は日本人の海外知識の普及・向上に大いに貢献しました。

 
マテオリッチが原典ではないだろうか、という記述は多いのですが、なぜ後世まで残る「大西洋」という記述が現れたのか、といった記載をしているサイトがどうしても見つかりませんでした。
 
というわけで仕方がないので、以下私の記憶(かなり正確だと思う)の中の〇〇教授の講義内容です。
 
マテオリッチはイエズス会宣教師として布教活動のため明王朝に入り込みました。彼は中国の文化を取り込みながら、西洋の学問や技術を伝える活動を行っていきます。その一環として中国に世界地図の概念を示した活動、それが『坤輿萬國全圖』です。
 
当時マテオリッチら西洋人が使っていた世界地図はヨーロッパが中心に描かれていました。当然ですね。
でもそれをそのまま翻訳して紹介したのでは中国は受け入れてくれない(出版の許可がおりない)と考え、彼は中国を中心にした地図をつくりました。
 
中国はその名が示すとおり、自分たちの住む国が世界の中心であるはずという強い自負を持っていたのです。
 
中国を中心に描くことで、洋、というキーワードが生まれてきます。私の記憶では、マテオリッチは洋を海として使用しています。
 
彼は、中国の東の海に「小東洋」西の海を「小西洋」と名づけました。
小東洋が今でいう東シナ海あたり、
小西洋はインド洋あたりに記載されています。
 
そして大東洋が北アメリカ大陸の沿岸あたり、さらに大西洋が・・・・もうお分かりですね、ヨーロッパの西の海に名づけられました。
 
つまりここでいう大とか小は中国からみた「距離」が小なのか大なのかに拠っています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E5%9D%A4%E8%BC%BF%E8%90%AC%E5%9C%8B%E5%85%A8%E5%9C%96.jpg
マテオリッチ以前にも、中国から見た東の海を東洋、西の海を西洋と呼び習わしめる習慣はあったようですが、それに大、小を冠してこの海を「大西洋」「大東洋」と名づけたのは彼が最初、ということだったということなのです。
  
その後、西洋、東洋という言葉は海ではなく、アジアやヨーロッパと混在して使用され、地域をあらわす言葉に変化し、唯一「大西洋」のみが日本で海の名前として生き残った、ということだったと記憶しています。
 
・・・・でもソースが見つからないのよね。
 
せめてこの講義をした教授の名前だけでも思い出せればなあ。
 
 
せめて状況証拠だけでもないかと、1602年当時の明の皇帝が誰だったか調べたところ・・・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E6%9A%A6%E5%B8%9D

万暦帝 朱翊鈞

14代皇帝

王朝 明
在位期間 1572年 - 1620年
都城 北京
姓・諱 朱翊鈞(よくきん)
諡号 範天合道哲粛敦簡光文章武安仁止孝顕皇帝
廟号 神宗
生年 1563年
没年 1620年

こいつかな? こいつにマテオリッチが「この地図発行していいっすよね? ね?」とオネダリしたに違いない!
・・
・・・
と思ったら、こんな記述が。

後半生では25年にわたって後宮にこもり、朝政の場に全く姿を現さなかったという。

あれ、おかしいな、皇帝仕事しないで引きこもってるじゃん(1602年当時)。
 
教授、もしかして仮説を講義で使いました?